嘉納治五郎に学ぶ留学生受入の精神

 2020年、東京でオリンピックが開催されること、そして前回大会が1964(昭和39)年だったこともほとんどの日本人はご存知のことと思います。しかし、それより以前に、東京開催が決定したものの開催されなかったことはご存知でしょうか。1940(昭和15)年、史上初めて欧米以外の有色人種国家かつアジアで行われるオリンピックとなるはずでしたが、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至りませんでした。

 その開催招致に尽力したのが「柔道」の創始者として知られる嘉納治五郎です。嘉納治五郎は、1909年(明治42)年に東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となりました。1938(昭和13)年に急性肺炎のため亡くなりますが、それはエジプトのカイロで行われたIOC総会で、2年後の第12回オリンピックを東京に招致することを確定させた帰路のことです。享年78歳、欧州諸国がこぞってヘルシンキ開催を推すなかで、東京招致に成功したのは、まさに嘉納が老骨に鞭打って奔走したおかげでした。

 そんな嘉納には、さらに日本で初めての留学生のための教育機関である日本語学校を創設したという功績があります。1896(明治29)年、清朝政府は留学生派遣に際して、日本政府に対しその教育を依頼しました。日本側は高等師範学校校長であった嘉納にこれを一任、嘉納は民家を借りて日本語や数学・理科・体操などの教科を教えたのです。この塾が1902(明治35)年に中国留学生専門の予備校「弘文学院」へと発展、合計13年間の開学期間において、同学院に入学した留学生は7,192名を数えたそうです。

 同学院にまつわるエピソードを確認すると、当時の清国政府の近代化にかける熱意を感じます。清国公使から留学生派遣の相談を受けたのは日清戦争終結の翌年、つまり清国は負けた相手国の日本から直ちに学ぼうとしたのです。日本留学を促したバイブルといわれる清国開明派の張之洞が著した『勧学篇』には、西洋から直接、学ぶよりは日本から学ぶほうが得策であるという理由が述べられています。
隣国ゆえに留学費用も西洋への渡航に較べて安価
同文同種ゆえに西洋文化に較べて日本文の学習は容易
日本の風俗習慣も中国に似ている
既に西洋列強から取捨選択して学び終わった日本を手本にするほうが
半分の努力で倍の効果が期待できる
などなど、きわめて実利的な理由が列挙されています。上記理由は、現在の中国はもとよりASEANからの留学生が留学先として日本を選ぶものと近似です。

 かたや受け入れる側の嘉納が留学生教育に示した情熱とその教育精神の高邁さにも、現代の我々が学ぶべきことが多々あります。
留学生教育を引き受けた嘉納は、清国人を対等の人として信頼し合い、助け合って世界の文化を学ぶべきことを教育方針として徹底させたのです。講道館図書資料部には、弘文学院で学んだ後、帰国した留学生たちが嘉納に送った感謝の手紙が多数保管されているそうです。嘉納のこの寛容な態度こそが、彼が後に唱導した柔道の「自他共栄」の精神に引き継がれていることは間違いないでしょう。

 現在、たくさんの外国人留学生が日本での就職を希望して当社を訪問してくれています。多い日は30人ほどが面接に訪れます。なかにはお金が稼ぎたいからという安易な発言をしてしまう留学生がいるのも事実ですが、そうした学生に当社は、いま一度、日本に留学をした意味を問うことにしています。
多くの留学生は、わが国から真摯に何かを学び、将来、母国と日本の共存のために寄与したいと考えています。そうした留学生たちの熱意に、当社も嘉納治五郎が示したのと同様の情熱をもって応え、当社から紹介した留学生たちがいつの日か皆さんと同じ日本社会の一員となり、会社やこの国の成長・発展の一助となってくれるよう願って、日々接しています。